箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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ものらしく、慶応がら明治二年頃に生糸売買の当事者聞の紛糾を、当時の尾州取締役所宛訴え出た書状ゃ、談合ができて当事者間で取交した文書などが残っている。この様にして農家の婦女の副業として生産されたものが東京、横浜等へ送出されたものでその量ははっきりしないが相当量の生糸が生産されていたらしいことは、「南信商社組合木下町連名」によってみると当時の木下区だけで生糸売買を行っている庖が九軒あり、ζの他に農閑期に生糸売買にたずさわったものもあると思えるので、そこそこの生産量があったものと思われる。生糸の輸出が年を逐うて盛となり、その生産も増大するうちに、粗製濫造の弊を生じて海外においての声価も大いに失墜したので、政府は明治六年一月生糸製造取締規則を制定し、各地に生糸改会社を設立させた。筑摩県でも同年二月に参事、氷山盛輝の名で告諭を出し、結社を申しつけている。そして県内に松本、諏訪、飯田の一一一ケ所に本社をおく改会社ができ、松本本社の下に会田・麻績・大町・木下・高遠・福島(木曾)の六ケ所の出張会社が設けられ、六月から生糸改を行うようになった。その趣旨は生糸改会社規則によれギふ、「生糸ハ御国産ノ最上品ニシテ累年盛大-一相行ハレ来リ候処製糸方逐々杜撰-一流レ詐偽濫造モ不砂ニ付其弊害ヲ矯正シ以テ真実一一生業ヲ開拡セシメンタメ今般同盟結社シテ広グ地方ノ情景ヲ視察シ便宜ニ依り各社ノ規則ニ所倣シ往々一法方隆盛ニシテ御主意徹底候弦ニ同盟協議シテ左ノ規則相定候事」というもので、同業者間の紛争を防ぎ、製品昭和初年の座繰り


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