箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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大正元年、松島市川八十吉の記録に、桑改植五畝城下、同二年改植八畝胤返とあり、大正十三年中箕輪村から郡への「桑樹種類別栽培反別報告」によると、「桑樹トシテハ小牧(城下)最モ多ク、魯桑、胤返、飛弾、飯田芭蕉等ノ順ニ反別減少シ、魯桑、改良十文字、甘楽桑、伊那桑、鶴田、大葉胤等優良品種ハ栽培面積少ナキモ年々増加ノ傾向アリ」とあり、当時の口問穫が知られる。古老のいうには、四方咲(マリュウ)も多かった。これは発芽が早く、桑量も出たが株が弱いのが欠点だった。小牧も葉が大きく、蚕もよく食べたが、矢張り株が弱くて、十年もすると改椋せざるを得なかったらしい。現在は、改良胤返が殆んどである。第二節箕輪町の製糸業箕輪町における明治以来の製糸業についてみると、明治初年より十年頃までの座繰り製糸の時代、明治十年代より明治二十年頃までの器械製糸導入の時代、明治二十年代より大正初期にかけての個人営業製糸の盛んであった時代、大正から昭和初期にかけての組合製糸(共同出資)発達の時代と世界的経済恐慌及太平洋戦争による企業整理による衰退の時代というように五つにわけで眺めるとその消長の様子がわかるのではないかと思われる。座繰り製糸の時代先-つ第一一は座繰り製糸の頃についてみるに、工場等による大規模の製造方法は行われなかったものらしく、養蚕を副業として営む農家の婦女が各家庭で座繰りの方法で糸としたものを、これも農聞に生糸売買を業とした人々又は商庖の人々が各戸をまわって買集め、これを東京、横浜等の生糸商人又は生糸輸出問屋等に売込んでいた


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