箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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左右に折り曲げて作った。熟蚕の上にこれを適度に拡げて置くと、折曲げた都内庁谷聞に繭をつくった。大正期に入って藁折器が考案され、族作りはずっと手軽になった。冬季聞には、あちこちの農家から、ガチャン、ガチャンという族折りの音が響いた。一回限りの使用であったから、毎年必要な族作りが、農家の大切な冬仕事であった。改良族O昭和になると、何回でも使える改良族になった。細縄を使ったのと、すぐった生藁数本に、荷札程の細い針金を巻付けながら機廻転接オコら族折O械で波形に折って作るのと二種類あり戦後まで専らこれが使用された。戦後しばらくしてボール紙製の廻転族が考案され、上族場所が広く要らないこと、繭かきの能率がよいことなど種々の利点があってよく普及し、今日に至るまで使用されている。明治初期の畔桑や境桑には、長岡新田では諏訪から入ってきた小坂桑が主であったが、一般には甲州桑が多かったという。明治中期から専用桑園の造畑が盛んになるが、植えた品種についての資料はない。明治四十年ごろの上伊那郡下においては、小牧(城下〉、胤返、四ツ目、甲州、九尾十文字が主要なものだったという。九桑樹


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