箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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Oコガヤ。明治三十年ごろまで、蚕に繭をつくられせる族には、専らツガの枯枝が使用され、これをコガヤとっ::::蚕上結果ニ終ル、全部条桑育トナス(大正十二年春蚕)」(市川養蚕日誌〉条桑育は桑棄が萎れにくいので、一回の給桑量を多くして給桑田数を少なくできるという利点があるので、この飼育法は広く普及し今日に及んでいる。当時の条桑育は三四眠からであった。文化育J条桑による稚蚕飼育は、昭和十七年に文化育と称して公開された。桑枝の切り口に水を含ませたスポンジを当て、それを油紙で包んだものを給桑する謂わば改良稚蚕条桑育である。中曾根大槻治平は家人の反対で採用できなかったが、主人が出征中で手間不足だった隣家で、春蚕初程文化G育で飼育したところ、上結果を得たため、夏蚕には三四名採用者が増えた。制晩秋蚕の飼育晩秋蚕飼育開始の時期を知る最も古い記録としては、昭和二年の市川養蚕日誌しか発見されていない。「本年ハ近年ニナキ大霜害ニヨリ、世間一般掃立ヲ減少セリ、依テ上族期ニ昔人ノ云フ通リ霜害年ノ桑沢山ヲ見ル晩秋八月二十五日掃立、正白新白四枚二番晩秋八月三十日掃立、正白新白四枚」春蚕の残桑が多かったため、晩秋蚕を飼育したものであろうが、これ以前の残桑の多い年に晩秋蚕を飼育していないから、同家では昭和二年が最初である。中曾根大槻治平「農産収納台帳」によると、同家での晩秋飼育の開始は、昭和十年からである。両者の開始時期の違いは、何に因るものであろうか。何にせよ晩秋蚕の飼育は、そう古い時期ではないことに疑いない。同上族法まぶいった。これによると繭の形はよかったが、繭かきのとき枝で指先を痛めるのが欠点だったという。コガヤは折藁わら族が普及した大正時代になっても、上古田などでは族が不足した時には、ツガを拾ってきて上族した。収繭のL


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