箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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ることは、蚕座の面積、給桑且患を決定する上に重要であった。卵から出た蚕(蟻どけ)を一査紙面から落とすのに、羽第で蚕紙面を掃立てることから、これを蚕種掃立てといった。方法は、醇化した蟻が頭部をもたげて挙動が活瀧になった時を見はかつて、蚕種を裏返して掃立紙から一個程隔て、裏面を程よく打って落とし、残蟻を羽箸で掃き落とす。または、卵から蟻が出たところに細く切ったぬか桑を与えて一二時間おき、蟻が桑に移ったところで蚕座に取る方法や、糠掃法といって細かにした籾糠か粟糠を蟻上にうずく撤き、その上に桑を与え這い上がらせるなど、方法は様々であった。ザきぎ剖桑飼育といって、三眠までは桑の葉を制んで与え、以後は「桑こき器」で枝から葉を落とし、(春蚕のみ)剖まずにそのまま給桑した。蚕病の予防法養蚕家を悩まし続けたのは、何といっても蚕の病気であった。古くから、「秋蚕と味噌汁はあたったことがない。」といわれているように、苦労して育てた蚕が上族間際になって発病し、一夜で全滅してしまう例は、秋蚕ではさして珍らしいことではなかった。明治十八年の細井家の記録には、「ホシ蚕ノ薬一、ヒル(にんにく〉四ツ一、コショウムハツ一、ショウチュウムハム日ヨモギ水百目右四味也水五合とある。蚕に撒布したものらしい。明治二十三年七月十、十一の両日、「養蚕ハ勧業中最モ大切ナル事業ナルヲ以テ、之ガ養法ヲ研究スルハ目下ノ急務ト一耳ハザルベカラズ」として、上古田の唐沢喜三雄等有志が参加して、「上伊那養蚕家有志懇談会」が伊那市常円寺で聞かれ、そこで討議された問題は、L-O


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