箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


>> 610

「一、春夏蚕種繭大草一貫四百五拾目代金四両二分相済」のような記述が、散見される。弥九郎は明治元年に、種蚕飼育用の桑畑一反二畝を造畑しており、他に近隣の農家に原種蚕の飼育を委託したことも十分考えられるから、かなりの量の蚕種を製造していたにちがいないが、製造量はわからない。OO後述の千葉半四郎等十一名も、弥九郎と前後して桑畑を造畑しているので、恐らく明治三年ごろには蚕種を製造していたと思われるが確証はない。輸出の好況で、蚕種製造家は、目前の利益に肱惑されて粗製乱造し、中には菜種を糊付けして蚕種と偽るような不正を敢て犯す者さえ出た。そこで政府は、明治三年蚕種製造規則を発布し、以後毎年規則を改めて取締りをきびしくしたが、粗悪品の多かったことは、次の県庁保管資料から窺われる。「蚕種製造取締ノ儀-一付テハ度々厳重ノ御通知奉由民候然ル処明治六年七月昨壬申年(明治五年〉海外輸出ノ蚕種信州種ノ内十-一六七分筑摩県御官下ハ、製粗悪ノ品有之侯趣蒙御礼左ニ奉申上侯蚕種世話役中略安曇郡岩谷村組合製造人一人別-一取札候処右様ノ始末取斗候者難相分り(以下十四名略〉猶詮索仕侯得共取締不行局有之儀ハ世話役共奉恐入侯依而本伊那郡木下村年ノ儀ハ一一層勉励取締方仕候間何卒格別御憐感以ヲ寛大ノ御筑摩県権令永山盛輝殿小林弥九郎沙汰奉願上侯以上明治七年の箕輪町における蚕種製造量を推定する資料に、世話人小林弥九郎宛に届けた蚕種用蚕掃立量の内訳は、春蚕用が七割、夏蚕用と掛合(春夏の中間用〉が三割である。右のうち実際掃立できなかったのは、下古田の一名分四分の一枚だけだったから、最低に見積って三二枚は掃立てたことに疑いはない。その掃立量からつくられる繭粒数は約一五O万粒で、その半数が雌だから、百蛾づけの蚕種七五枚は製造可能であった。委託の範囲は、南箕輪、西箕輪、手良の各村に及んだから、その量はO


<< | < | > | >>