箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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当時日本一の蚕種国だった信州、ことにその中心地の上回付近から、多量の蚕種が海外に輸出されたのは勿論箕輪町における蚕種製造業については、明治三年以前の資料は発見されていない。最も古い資料は、当時この地域の蚕種製造業の中心人物で、後に筑摩県管下の蚕種世話役になった、木下の小林弥九郎の「明治三庚午歳繭又昔、伊那錦等六九品種白飛白、長白竜等四八種飛白、長白竜等三八品種青熟×丙七号、飛白等九二品種白一号×支四号等四品種欧九号×正白等一一品種日新×支一五号等一品種分離白×安×泰等二品種日一一五号(新〉×支一O八号日一一五号×支一八号、日一一一一号×支一一目一一五号(新〉×一八号、日一一五号×支一O長信×長光×信和箕輪町におけ否蚕種製造ヨーロッパの蚕業国イタリアとフランスは、一九世紀半過ぎから微粒子病の蔓延に悩み、海外から健全な良種を求めていた。元治元年、たまたま来日した一フランス人が、日本蚕種三枚を持ち返OOOって飼育してみところ、その成績が極めて良好だったことから、以後続々と日本蚕種を輸入するようになり、その好況は明治三年七月ごろまで続き、蚕種製造業者の利益は莫大なものであった。O明治三十二年四十一年大正二年七年十二年昭和三年八年十三年十八年昭和二十三年のこと、伊那地方からもかなりの量が輸出された。買覚」(糸用繭が主〉で、それには号三品種八号O


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