箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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収繭量と桑園面積|一戸当り平均収繭量|一戸当り平均桑園面積昭和27'年93KG22アールグ40年16824グ41~47257367年間平均七四十年以降、養蚕農家は更に急減したが、四十一四十七年の七年間、平均年一三万J四千切を収繭している。別表の示す通り、この間は四十年以前よりやや規模の大きな小数の養蚕家によって営まれている。小規模養蚕家は、より安定した現金収入を求めて町内各所に急増したカメラや電子産業の下請工場その他へ転業し、採算のとれる程度の比較的大規模な養蚕家が残ったものであろう。蚕種と養蚕業明治期の蚕種明治初期の養蚕において、どのような蚕を飼育していたかは、資料がなくてはっきりしない。江戸時代から既に蚕種製造業者は存在していたし、前掲の細井家金銭出入帳にも、「明治四年七月十七日入金三朱彦七ヨリ蚕種代明治五年六月十一日出金三朱塩ノ井、蚕種四ツ切」という記載があることから、この期に蚕種が売買されていたことは確かだが、蚕種名については記載がないのでわからない。しかし、恐らく次の三種が飼われていたであろうという推定はできる。「「青白」文政十年小県郡塩尻村、藤本善右衛門製造「掛合」弘化二年右村藤本縄基製造「大草」天保十年残、上伊那郡南向村、佐々木宇八撰択命名」右の三種と推定するのは、明治七年に、蚕種製造業者で筑摩県の蚕種世話役でもあった小林弥九郎(木下)が、箕輪町、南箕輪村、伊那市西箕輪、同手良、福島等の一、000戸以上の農家に委託して、「皇宵白」「掛合」の


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