箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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戦後しばらくの聞は食糧危機突破のため、農政が食糧増産を中心に進められ、また、戦争中の桑園荒廃などが原因で、昭和二十一年の中箕輪村の産繭量は、昭和十五年の三割、最盛期の大正十五年の二割一分というように、養蚕業は見るかげもない衰退振りであった。しかし敗戦による賠償物資としてアメリカに生糸を要求されたし、農協の共同稚蚕飼育、ハウス飼育や廻転族の普及など、飼育技術の改良や飼育の省力化が進み、また工業の復活によりチッソ、リソサソ等の化学肥料が出廻わるようになって荒れ果てていた桑園が回復し、桑の増産が可能になるなどにつれ、産申醐量は徐々に増してきた。戦後の産繭量指数はあとの表の通りで、東箕輪を除いて、二十年代は徐々に、三十年ころから、特に中箕輪では急速に産繭量が増している。これは戦後十年たってようやく朝鮮戦争軍需による好景気で経済が安定して国民の生活がらくになり、人々が忘れていた絹のよさを思い出したことによって、生糸の需要が増加したからである。こうした生産条件の好転に伴なって養蚕業は再び活気をとりもどし、三十年代の産繭は上昇を続けた。東箕輪だけが二十七年に二十一年の六五%と急激に落ち込み、翌年から回復はしたものの、中箕輪、箕輪地区とはちがって産ー.L.ノ、戦後の養蚕業回転族


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