箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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物価上昇指数六円五十銭ト下落ス、養蚕家の見当違イ云ワシ方ナシ。:::六月三十日ボツボツ繭カキ始マル、相場黄繭一貫目六円前後、今春一貫目二十円以上ヲ見込シ養蚕家、コンナ夢ヲ見タルコト初メテナリ。」この年の蚕業収支を算出する資料はないが、第一次大戦中から、諸物価の上昇率は常に繭価のそれを上回っており、大正九年の指数は次表のようだつたから、大きな赤字であったにちがいない。不景気は慢性的に続き、そこへ昭和五年の大恐慌に見舞われたのだから、大豆粕農業ωη価IQG21212|唱「今年ハ初春当時ヨリ咲成リ能グ桑沢山、春繭一貫目二円八十銭ヨリ三円ニハ養蚕家ハ青息吐息、不景気コノ上ナシ。」という状態であった大戦中の養蚕第二次大戦中の昭和十六二十年の町の産禰量は不明だが、昭和十J五年の産額を維持したか、或はそれを上廻ったのではないかと推定される。中曾根大槻治平の記録によると、同家の収繭量は、十五年が一一一一一貫で、十六十九年の四年J間では、十九年の一五貫を最高にして、平均一二六貫を上げている。出征による入O手不足は勤労動員で補い、銃後の農民もまた、必死で増産に励んだのではなかろうか。しかし二十年には食糧増産の国の方針によって、桑の強制掘取りが行なわれたから、町の総収繭量は、ほぽ別表二十一年の額まで急落したと思われる。強制掘取りに年年正大ついて、大槻治平は次のように記している。「強制掘取第一回三割第二回第三回ト引続キ、其跡地へ大豆ヲ蒔付ケタルタメ繭減収トナレリ(中略)第三国掘取ノ指令ヲ受ケタル直後終戦トナリタルタメ実施ニ至内4DNVラズ:::。」因に同家の収繭量は、二十年七六貫、二十一年七二貫であった。一律三割掘取らせたかは不明だが、全町では、かなりの減畑になったにちがいない。1∞240米物価1-:|尋


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