箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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一戸当の平均掃立量で子守娘を傭ったのも、この頃のことである。不況下の養蚕養蚕は繁栄したが、農家経営は必ずしも順調ではなかった。この期間中、大正四年、同九年、昭和五年と再三恐慌におそわれた。養蚕農家はその都度深刻な打撃を受け、痛手を回復するころには、次の恐慌がやってきた。大正三年の状況は、次の記録から窺い知ることができる。「:::古今未ダ曾テミザル所ノ大戦(第一次世界大戦〉トナリ、タメニ横浜糸相場ハ八月三日ヨリ自然売方中止トナリ、製糸家マタ何処ガ底値ナルカ見当付カズ、勢イ三円(夏繭貫当リ)ト安値ヲミルニ至レリ。:::至ル所不景気コノ上ナシ。」十銭、硫安十貫目入十五円〉施肥。然ルニ糸相場ハ六月拾日頃百斤千三百円マデ下落シ、交配繭一貫目五円ヨ養蚕家ハイツソウノ張込ミユテ高価ナル肥料ヲ仕入レ(豊年一臥十貫目入八円八十銭、リンサン七貫目入五円五「春二月頃横浜糸相場ハ百斤-一付、実ニ四千二、三百円ヲトナへ、従Oから、日当は村内の雇傭者よりは一銭高い五銭六銭が普通であった。村内の雇傭者は、日当三五銭五銭であった。OOTOJ経営規構過小養蚕養蚕中養蚕大養蚕過大養蚕また、大正九年は、養蚕の繁栄は、こうした安い労賃の労働者を傭うことによってもたらされたのである。新潟から二五年契約J大正4年掃立量8匁14305090※大正初期における長野県養蚕一戸平均掃立量〈春、夏、秋〕三人、時には五六人を傭った。他地域からの雇傭者は、11.2匁(県政史〉JJ二十才前後の若者で、不平をいうことなく夜遅くまで働いたた。その多くは村内から求めたが、桂庵と呼ばれた周旋業者を通して、佐久や諏訪の山浦地方からの出稼労働者を常時二大規模経営になると養蚕労働者を雇傭しなければならなかっ一四人、過大養蚕で二二二六人を必要としたから、これ等J養蚕に要する人手は、中養蚕で七八人、大養蚕で一二JYテ繭相場モ一貫目二拾円以上ヲ見込ミ、けいあんPT


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