箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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O繭量は再び昭和二十一年にさえもどることなく低迷を続けたのは、果樹に切替えた養蚕家が多かったことによるといわれる。東箕輪では昭和六年にリンゴを導入していたグループがあったが、それが戦後の食糧難の時期に最盛期にたっていて、大当りに当った。北信のリンゴ農家では収入の札束をモノサシではかったという話もこの時代の話である。これに刺激された農家が桑畑にリンゴ、続いてナシを植えて養蚕から果樹に転換したのが主因である。昭和二十七年以後の、養蚕戸数、掃立量、収繭量等の推移は次の通りである。掃立戸数三十三年ごろまでは、多少上下しつつ増し、三十四年以降は三地区とも減少の一途を辿っていて、特に東箕輪改良族繭のけば取り


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