箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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明治四年米一駄-七両一分三朱とちの実一駄」明治五年米一駄二両二分二朱しようちゅう五合二匁五分(一一向で一斗五升の割)ぞうり一足百文中折一じよう七一文畔桑などによる副業的養蚕も捨てがたいものであったといえよう。明治中期の養蚕業増加す否収繭量明治十四年ごろから、フラγスやアメリカに生糸が輸出されるようになると、農家にとって等数貫額||金明治33両2朱3分3文(春)2賞弱(推定〉112~3貫(グ〉55両2分庁83門10120円94銭118貫725匁13168円58銭1119.100震当3円59銭652.1113.260グ18130円98銭902.1120.650グ21160円23146円グ13.00グ3.5325!54円60銭(秋〉春夏の分見当「331137円40銭(春)貢数不明11(秋〉135円11(春〉386門59銭11(春〉351110円50銭150円(秋〉Dア蚕は大事な現金収入源となり、古老の話によると、このころから専用桑園による本格的な養蚕を志す農家が出てきたという。福与の細井家では次表の通り、十年ごろから次第に収繭量が増し、十三年には十九貫に達している。これだけ収繭するには、蚕種は五枚程度は掃立でなければならないから、専問桑園があったにちがいない。北小河内久保忠雄家には、明治二十四年春蚕四貫代金一六円、夏蚕二七貫五三匁代金七五円一OO二銭、秋蚕代金三八円六銭の記録がある。また、明治二十一年訓令二七号による県への報告金銭出入帳福与細井家O掃立量〈枚)I掃立戸数O.110.2580.320.514O.75131.011.2511.511.7512.01計22.7枚34戸2.75


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