箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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理が行なわれ、その繁殖が防げられている。この頃は、漁業専業者が、箕輪町として一二、三名はいた。この人達は、取った魚を、商広、飲食庖、民家に売って生計を立てていたのである。これ等の漁業者の鑑札は、村役場にて取扱い、漁業組合においても、組合員ァ小人数にするべく、きわめて限定していたのである。ゃな築で魚をとる方法は大正から昭和初年にかけて行われた。天竜川の川幅いっぱいに竹の賛をはって川を下る魚をとる方法である。伊那路橋上、箕輪橋上、下、漆戸、北島、十沢橋下には築が作られた。何人かの人が出資をして作ったが、出水のため築が流されるようなこともしばしばであった。築勘定といって出資した仲間の人たちも利益を得ることより、魚をとる楽しみの傾向が強かったので、赤字になっても余り気にしなかったようであ昭和初年までは、こうした築漁が見られたが、今は全く見られない。昭和の漁業こうした天竜川の漁業も、昭和期にはいって、西天竜に水田が多く出来、天竜川の水量が少くなるに及んで魚の量も著しく減った。また下伊那地方にダムが多くできたことなどもあって、鮎の上ることもなくなり、放流という方法がとられるようになった。水産物総価格昭和三年昭和四年昭和五年昭和六年昭和七年一、九七三円一、八三三円O六、一九円六、六五三円七、一二四七円


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