箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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誓約では、取締掛をおいて報酬を出している。次のように述べ取締掛の権限の強さをものがたつている。取締掛ハ臨時-一区内ヲ巡視シ毎戸蓄積ノ薪、材木、草類並-一桑等-一付尋問スルコトアルベシ該尋問ニ対シ抗論スルコトヲ得スさらに違約金について十五才未満は半額、十二才未満は説諭(情状により半額)等をきめ、違約金規定表を作ってある。これは一等より七銭すまで区分し、一等五円は放火するものをあげている。山論・入会山日向入、日陰入、入会山論日陰入山については明治以前宝永一万年の絵図面によって、南真志野、北真志野、北小河内、南小河内、福与、片倉、八ツ手、長岡及び松島の九ケ村がその権利を有していた。ところが明治五年、今までの取きめによる入会刈敷山のことは、「五月中十二日前山明ニテ中迄」また稼については、「秋彼岸十二日前山明彼岸迄」とあったのを松島村より苅敷株ともに不足だから改定してほしいとの申出があった。そこで該当九ケ村相談の上次のようにとりきめた。一苅敷山草山明之義者五月中十六日前ヨリ中迄日数十六日ノ内苅敷可由・事一株山明之義ハ秋彼岸二十五日造日数二十日ノ内苅取可申事一於日陰入山稼致候共入会村々及迷惑候儀ハ相互-一致申間敷事当時は化学肥料としては、石灰くらいしかない時代のことで、田の肥料などこの苅敷にほとんどをたよっていた時代であるから、苅敷の必要性も極めて大きかった。特に山から遠く離れた松島村にあっては、道中に時間がかかりその刈取量も少なくならざるを得ない。こうしたことから日数を増したものと思われる。こうした慣行上の入会山が明治政府の官有地化の一環として官有林に編入されてしまった。これは明治十一年三月の部分林付条令として原野の多い入会山が官有林に編入されたものである。


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