箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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終戦後、家畜飼料は極端に不足となりこのため、乳牛飼育も困難となって、静岡の方へ売却して終わった。昭和二十三年のことである。一方、農家では現金収入の道として、広い畑に飼料を栽培しての乳牛飼育がはじまるのであるが、武井牛乳庖は約三十年間、さらにさかのぼって樋口環が箕輪地区の酪農の先鞭をつけたわけである。昭和十七年には中箕輪村では荷馬車組合が乳牛導入を行い、山形県より約七頭導入したが、乳量増加によっOて市乳販売にも限度があって、乳業資本に原料乳供給者として隷属せざるか}得ない状況となった。当地方の主なる乳業資本は森永乳業であった。L酪農熱も上りつあった折、終戦となったため、一時乳牛手ばなすものもあったが、戦後にいたり進駐軍の指令に奨励策もあって、農地解放の進展により酪農熱も盛り上りを見せて、その復興も早かった。乳牛導入も牛馬商によって北海道等から移入されて、農業経営の一分野として、農村経済の振興に向い益々強固な地盤を築き上げ新たな出発となった。昭和二十三年には南信一円に渡って南信酪農農業協同組合が設立され箕輪町酪農家もこれに参加して我が国で唯一の酪農農業協同組合が発足した。その後五、六年の聞に牛乳、乳製品の配給、価格統制が廃止され、朝鮮動乱により需要の状況は、大いに飼養熱を高め、一方においては大資本による集乳と製酪工場の進出、農協関係の酪農対策による協乳の設立と、酪農熱は最高潮に到達して、いわゆる「酪農ブLム」を現出したのは二十九年四月である。しかしその後「酪農振興法」が公布される頃より乳価の値下り「農業基本法」の公布後の経済の変動、世界市場における自由競争の影響は酪農家に対する警告であり、白から解決せねばならぬ経営改善と飼料の高騰はとりもなおさず生産費の節約と集乳一元化により取引きメーカーに対し発言権の拡大こそ必要である。箕輪町の酪農においても前述の過程を通り、その後全県的の沈滞ムLドの中にあるとはい与ながら飼養頭数も用牛飼養動向を見ると上表の通りである。上伊那地方で豚が飼育されるようになったのは明治三十二年頃と記されている。明治末から大正にかけて漸次、増加しているとあるが、この頃箕輪町でも飼育されていたが、その数は極めて少なかった。昭和になって農村恐慌の深刻化ととに、現金収入の途を求めるため、台所などの残棒を利用しての養豚が行われたがこれとて二、一二頭を飼育するに止まった。家の軒先を改造したり、物置の片すみを豚舎として改造したものが多かった。


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