箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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としては次のようである。乳牛頭数一一一一頭を飼育して、搾乳高は五、一石二斗三升五合を生産し、町内はもとより、伊那、辰野方面まで販売されていた。松島においては、一日一合宛を配達又はとりにきてもらい一ヶ月、一円を支払っていた。牧畜(明治四十二年)乳用牛頭数満二才以上八頭満二才以下五頭搾乳高五一石二斗三升五合右価格二、O四九円四銭O乳牛の種類は「ホルスタイン」種であった。明治末に創業した樋口環の乳牛飼育は大正年代にはいって大正八年頃長岡藤沢氏に引継ぎ、さらに大正十年、武井文彦が譲受けている。乳牛十頭ほどを飼育して、牛乳を生産し、注文によって配達販売した。販売先は、伊那富村羽場、北大出、中箕輪村、沢、大出、松島、木下、南箕輪村久保、塩ノ井、伊那町々部、箕輪村三日町、東箕輪村長岡などで、その数約三百三十本ほどであった。当時としては、牛乳を飲むというのは薬を飲むに等しく、病気の者の飲用か、病後産後の依復等に多く使われた。乳牛数(戸数〉及び搾乳高(中箕輪村)一昭和五年一昭和六年一昭和七年一昭和八年一昭和九年一昭和十年一昭和十一年一つ斗パ斗ゴ引っ引っJ1ι斗ヰコ斗計一J1J引寸バ斗J引寸J2武井牛乳庖は大正十年頃より昭和初年の不況期、さらに十二年よりの戦争中も続いた。飼料自給のために、西天竜上の原野を開墾し三町歩ほどの農場を作り、えん麦、小麦、高梁、とうもろこし等を栽培して牛の飼料とした。


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