箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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き、飼育者に販売代金を渡す。昭和十二年日支事変がぽっばっして馬の徴発が行われ、この制度の利用により役肉牛飼育者は一層盛となり終戦前を頂点として、戦後一時飼育数も減ったが、県の畜産振興計画により増殖された。時代の変せんと農家経営の変せんにより朝鮮牛と同様その数も年と共に減少し、食生活の変せんにより牛肉の消費需用の増加へと転換した。その飼育も「適地適畜」へと、移行せざるを得なくなった。乳牛の多頭飼育町の肉用牛の飼育頭数は、昭和四十年七三八頭、飼育戸数六六九戸であったが、昭和四十六年は四一一頭、二七二戸と、年々減少傾向にあり、農家の経営転換と多頭飼育が急速に進展している。箕輪町における酪農導入は上伊那においでは、早い方であって、明治四十年代にはホルスタイン種を移入して飼育すると共に市乳販売が行われた。当時は自家に草刈場をもって、一三頭位を繋飼いして、搾乳して一般に販売され、乳幼児や病人の栄養補給に供されていたが、不潔になりがちな農家の牛乳を衛生的に処理するには乳製品の原料乳とする以外に使用を許さないと規定した「牛乳業取締規則」があったが、当地方には乳製品工場がないため更に「規則の一部改正」によって、実際には従前どおり市乳販売が行われた。明治四十二年頃になって、松島の樋口環(井桁屋〉が乳牛飼育をはじめた。同時としては画期的なものであった。その規模内容酪農


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