箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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判別一9年393竺L45年「一一戸両手|281P1た)によっていたからである。また農耕用にも人力や馬が殆どであった。水田の耕起や代かき、畑の耕起、さらに農作物の運搬などに馬車を使った。特に戦時中(日|箕輪町I608I445明支事変、大東亜戦中)には労働力不足を補うために畜力水回除草が行われはじめた。このため昭和十七年に箕輪町松島西天竜地区で関東一都八県の畜力除草競技会が」町一川行われた。こうした馬の使用も終戦をさかいにして、自動車の著しい普及とともに漸減の傾向をたどった。飼育という煩雑さもなし、力は馬の何倍かあり、運搬力も大きい。自動車の進出は、馬の必要度を著しく減じた。特に昭和三十五年頃からの耕転機のめざましい導入で、馬の減少に拍車をかけ、近年では馬は全くめずらしい存在となってしまった。役牛一方では農作業についての重要な一翼として、また、戦争という時には軍の資材、兵器等の運搬の重要な戦力として、馬の価値は認められていた。各農家では馬を飼育するところ「馬屋」を家の中の入口近くのよい所に設け、家の人同様に朝夕顔を見られ、また飼育するのに便なように考えた。昭和年代の罵昭和初期になってから馬の農業その他に使われる様子は、大正年代とあまりかわらない。運搬のしごと等についても自動車の利用はまだ極めて少なかったし、まだまだ、箕輪町では馬の力を借りることが多かった。これは、自動車は遠距離輸送が主でこの近辺(辰野や伊那町など〉への運搬は馬車(運送ともいってい朝鮮牛朝鮮牛が移入されたのが大正六、七年頃で箕輪町で飼育されだしたの


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