箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


>> 540

また同年六月一日付長野県筑摩出張所の達しにより、これら牛馬紘一寸を営業とする者医務署へ出頭するように申渡している。従って当時、既に牛馬医に対する指導若しくは監督といった形のあったことがわかる。また明治十六年に馬医の調査を行っている。これについて東箕輪村長より上伊那郡長宛質問を出し、これについて調査には及ばずとある。従って東箕輪村には、牛馬医はいなかった。大正年代の馬大正年代では大正九年に中箕輪村で馬匹調を実施している。総計四九頭とあるから、明治初年の木下村の実情Oより予測して、大へん増加している。特に馬匹の増加を奨励しているから、そうした結果ともいえる。これは単に畜産業振興というだけでなく、明治から大正時代にかけて箪馬として、騎兵隊用・砲兵隊用・鞘重隊用として大切な戦力でもあった関係が大いに影響している。そして軍用として徴用されたり、買上げされたりした数も、この地方にあってもある程度は数えられたものと推定されるが、軍機密ということもあってか、その資料のないのが惜しまれる。大正年代には毎年馬匹調査が行なわれ、目的としては軍徴用馬として、その現況をは握することであって、大O正九年には中箕輪村においては、検査対象馬匹四九頭中徴用に適する馬匹二四三頭、不適格の馬匹二四七頭と記されている。またこの記録の中には、馬の農作業に及ぼす関係の大きなことを述べ、今後の飼育について精励することを強く望んでいる。運送A馬車


<< | < | > | >>