箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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「一寸一寸これらのことから、当時飼育された馬の数はその戸数より考えると比較的多く、牛馬が大切な財産であったことが推察できる。明治七年頃の木下村の飼育数と中箕輪村の飼育頭数と比較すると、大分増加しているように思われる。その頃農家にあっては入手とともに労働力の大切な担い手である罵は、その大切さがうかがわれる。明治年代にあって農耕馬は木曾より来たいわゆる木曾馬がかなり多くを占めていた。従って権兵峠をこえて、馬を買付けに行ったものである。次の文書はこの間の事情を物語るもので、市場に於て競売するはずのところを買受人の都合により、競買をへないで売るからという願書である。その頃の馬一冒頭の代金五六円とあり、当時の米一升五銭三厘(四斗一俵二円一一銭)とくらべ馬は農家にとって高価な財産であったことが窺われる。また馬についての登録がなされ、鑑札番号なる字句の見えるのも興味深い。この文書中の読書村とあるは、現在の木曾郡南木曾町である。「青馬承認鑑札番一、三七O号牝牡別一副年金番養人住所姓名五十六円読書村上本竹次郎所有者住所姓名読書村上本竹次郎右ハ成規之通リ市場ニ於テ競売ニ附ス可キ処買主カラ沢喜雄ノ都合-一依リ競売-一附スル能ハサルニ付本日午前中対談売却致シ度候間御承認被成下度此段御願候也明治二十二年七月三日右代人大桑村金沢西筑摩郡産馬組合理事高坂重助殿明治初年頃にあって馬売買を取扱う者について、届出をして鑑札を受け、その仕事をしたものである。馬売買の人のことを、博労と呼び、村内または近在の家々の馬の様子などを知り、木曾より買入れた馬や、地元での馬を売買した。その斡旋料は全くの腹づもりで、特別な基準というようなものもなかった。時には中には牝鹿毛糸願四Aμ、代紋造L--,


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