箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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りんご栽培技術を普及したのである。しかし梨同様に戦時中は食糧増産のかげに不急不用作物として、軽視されたが、戦後食糧事情の綬和とともにその需要も急速に伸びた。終戦後の一時期「りんごの唄」とともに多くの国民に、貴重品扱いされ、需要は更にのびて、とぶように売れた。その後バナナの輸入、みかんの増産などによって、りんごの需要はおとろえを見せたが、近時そのよさが見直されて、市況も活発となりつつあるが、栽培面積はのびていない。今後は消費者の噌好の変化にともない、順次品種の更新を行ない、省力化栽培に適した品種導入も必要となり、国光・紅玉・印度・デリシヤス等の一部がふじ・むつに更新される時も間近いことである。桃桃の栽培は大正十四年頃、ぶどう栽培の農家で作った。木下、内山幾睦の四反歩が最も広く、その品種は「あさひ」であったが後には、田中早生、橘早生、天津水密、日月桃、アムスデンジュン等の新品種を入れて収量の増加品質の改良をはかった。この頃では(大久保、白桃、高陽白桃)等の品種が多いが栽培面積も少ない。これは近くに缶詰工場もなく加工できないため、収穫期聞が限定されるのと輸送途中でのいたみが多いため等の理由によるものである。ぶどうぶどうを広い面積に栽培しはじめたのは大正十三、四年の頃で、現在の長田鉱泉下の大槻、松島西天昭~や」園りんその他ノ、


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