箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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協、卯ノ木を加えて、一四を数えた。この梨栽培も昭和三十五年頃を頂点として漸減し現在にいたっている。しかし換金作物としての有利さは他作物を引離しており、晩霜、台風などの気象的災害が少なければ、農家にとって魅力は大きい。また近時は受粉、摘果、袋掛け、収穫などについての労力不足が大きい。りんご栽培のはしりは木下南原の林の北に中曽根の大槻治平が一反歩位を植えたが、栽培技術の未熟さにより殆どみのらなかった。昭和五、六年頃のことである。氏であって、植付面積は七0アール程度であった。長年養蚕によって生計を立てこの頃南小河内では、果樹栽培の計画があり、これを積極的に進めた人は、倉田植良・藤沢伝・井沢睦治の一一一L来た時代であり桑を掘り取り成功するかどうか、全く判明しない果樹を植えた為当然周囲からは注目の的と同時に大きな批判を受けたが、これが刺激となって植栽する同志も年L増加の一途を辿り、昭和十六年の作付統制令で果樹の植栽が出来なく成った時の南小河内の果樹の植栽面積は次の通りとなった林果六七六アール梨一八アール桃五六アール計七五0アール当時は上伊那郡の土地は、こえすぎていて「りんご」はならないと、いわれていた。いわゆる「ごぼう根」が出て実、がならないので、植付けの時は下に石を敷つめたといわれている。この頃木下内山幾睦の果樹園は、長野県南信指導果樹園として、県技師藤原氏によって、せん定・施肥・消毒等の栽培指導が行なわれた。この人が「長野県のりんごの神様」といわれた人で、この内山果樹園を拠点としてりん,...ゃにーOP


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