箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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こうしたことから栽培についての研究もさかんになって各地に植えられるようになった。しかしこうした果樹栽培振興の風潮も太平洋戦争勃発と共に食糧増産のかけ声と共に「果樹園芸報国運動」の波に減少の一途を辿った。終戦後食糧飢鍾のほぼ終了した昭和二十四年甘藷、馬鈴薯等の作付転換が協議された。中箕輪町では畑約二二町歩を他の作物に転O換すべきであるということになった。これは長野県農村経済審議会の発足による各町村における甘藷、馬鈴薯などの作付解除である。中箕輪町でもこの転換作物を何にすべきかを悩んだが、二十世紀梨の栽培がよいということで一町歩を目標に作付転換OOOをはかった。結果的には約八町歩を確保して二十世紀梨の栽培を本格化したのである。ここで創生の苦をなめた樋口国美昭六園が脚光を浴び戦後の梨ブLムを招来した。農協はその資金を貸付け(反当一万円)その栽培を大いに奨励した。換金作物として極めて有利であるということから多くの農家が植付け、りんご、桑、ぶどうなどからの転換、水田への植付もさかんに行われた。最盛時の昭和三十五年頃には箕輪町全体で栽培戸数五七六戸、面積も八町歩に及び、その選果場も中箕輪地O区で木下に四ケ所、松島三ケ一所、沢、中曽根、上古田、下古田各一ケ所の計一一ケ所及び東箕輪農協、箕輪農梨の袋I:Jミけ


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