箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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なってきた。果樹園経営の再建に主軸であった紅玉・国光に「ふじ」を接ぎ替て、消費者に歓迎される味・形状・外観が良いりんごを栽培するようになった。社会状勢の推移をみとおして今後の果樹の種類、果樹園の存在にも、消費者の動向を早く知ることが必要となってきた。箕輪町の農業粗生産額に対する果実生産の割合は、一五をこえ上伊那郡下では箕輪町、中川村とともに最もVA高い比率を示している。これは梨の収量多きためであって、上伊那郡市の平均値が八一くらいであるかLOMMら、箕輪町はそれよりもはるかに高く、町村中でも高い方である。手はかかるが、換金作物としての果樹の有利さは他の作物にかえがたいものがあるが、長い年月と多額の資本を要するので新しくはじめる人は少なく、現在やっている人の増反が若干見られる程度である。また果樹栽培者の組合は、昭和六年ぶどう及りんご生産者が集って組織され、これが順次上伊那園芸協会に吸収され箕輪支部となる。さらに戦後は園芸協同組合となり、これが箕輪町農業協同組合の果樹部会へと発展して現在にいたっている。箕輪町の梨栽培のはじめは松島の樋口国美が愛知県安城へ栽培技術の研修に行ってきたことからはじまる。現在の箕輪中部小学校下の畑に二十世紀幼苗八百本を仕立て、これを松島春日町七反歩の田をつぶして梨園として植えたものである。これは昭和六年のことである。ちょうど養蚕は糸価の暴落から下落し、何か換金作物はないかと考えていた頃であったのでこの企てはその成否が注目された。結果は何年かの投資のみの年が続き、ようやくいい突がなった頃には、台風に落されて、甘い夢におわるようなこともあった。しかし戦後の食糧事情も悪かったこと、都会の人に二十世紀梨のよさ等が認められ、高収入をもたらした。結果は成功であった。ちょうどおなじ噴飯島町の桃沢匡勝が二十世紀梨の栽培を手がけ、伊那の南部にも栽培の機運がさかんだったこともあって昭和十一年に上伊那園芸協会が設立された。梨


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