箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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の発達と重なって大きな圧迫を受け、養蚕業も繭価が著しく下落し農村経済が加速度に窮迫して産業転換をやむなきにいたり、換金作物導入による経営改善の一環として「リンゴ」を植えたのが昭和六年でこれが果樹園としての最初である。その後著しい伸びはなく、戦時中は主食増産のため、果樹減反ということがあったが幼木園が多く間作をすることによって減反は免れて、終戦後統制も撤廃され、ようやく日の目を見るに至ったが、食糧不足に自由経済がかさなり、価格も良くなって、さらに増植の一途をたどり、昭和二十八年の状況は次の通りである。リンゴプ桃梨計ウ一四五アール八七アール七二アール二二アール一、一ニ二六アール作付統制撤廃後十年にして約二倍の植栽面積となった。しかし頂点となった昭和二十八年頃を境に桃にセンコ病が発生し、その防除方法もなく廃園となるものもでた。続いてブドーも価格下落となり続いて廃園する所も出た。昭和三十二年、三年頃から各果物も豊富になり、価格も横這い状態となったため増植熱は下火となり、昭和四十六年にいたっては次の如く減少している。Oリンゴ一、五四アール梨五八アール桃二五アール10胡ブド桃二一アール・三アール計一、一四九・三アール減り方については概して少なくないが、社会状勢が大きく変化をしていく現在、果樹園経営にも大きな試練と


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