箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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されているが、その量一万五千斤、金額で三百七十五円と記されている。その後はほとんど栽培されず、戦後になって急速に栽培面積を広くした。その面積及び収量は前頁の通りである。昭和三十八年にたばこ耕作組合(昭和二十七年発足〉なるものがあり、参加戸数二九戸となっている。葉たばこ栽培についてのひとつの障害は近くに桑園のある場合は作れないということである。これはたばこの持つニコチンが蚕に有毒なため、桑園が近くにあると困るわけである。近時桑園も大分少なくなったが、こうした難点もたばこ栽培の増加しない一因とも考えられる。なたねは戦時中及び戦後に於て食用油の必要から栽培されたが現在では極めて少い。栽培面積収量昭和二十七年東箕輪五反一二石昭和二十六年中箕輪三町九反三九石右のように戦後しばらくの時期にあっては自家用として栽培したものである。H昭和三十五年栽培面積一八、総収量五四俵、販売量一八俵、販売金額六三九、Oた。O000円となっている。ホヅプについては、長野県の北信及び東信で作られていたものが、戦後、箕輪地区でも作られるようになっ昭和三十年前後が最盛期で、中箕輪町の作付および収量も昭和二十八年作付一、七ヘグタOIル一、三九一貫Yとなり、つみとられたホプはピIル生産工場へと送られた。上伊那郡下では、箕輪地区が最も多く栽培されたが、労働事情やホプの品質向上などがともなわず現在では栽培されていない。ホップ栽培者の組合としてホグプ組合が昭和二十一年に設立され、昭和三十八年に一五戸が加入していた。


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