箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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ω苗代田は完熟堆肥坪当一貫匁を施して耕起する。耕起後ω管理苗代は毎日、日光の直射を受けてから一時間後に代掻までによく土を砕き、その後で水をかけて代掻をする。それから床揚げをしてタンザク型に切る。(床面四尺、海八寸とする〉回より十日くらい後となる。第三回は田植より十日十四日くらい前とする。第一回は坪当硫安一01一五匁くらい、第二固には坪当硫安三五匁1四匁と同量の過燐酸石O灰を配合して施す。第三回は坪当百匁百二匁の硫安とIO落水して、床面を日光にさらす。すると大きな亀裂ができ過石を前回同様に施す。毎回追肥の時、溝を除草棒にて押してドロ水がよく床面にしみた後潅水する。追肥はこの限度より多過ぎねようにする。る。そして日没二時間前に潅水する。毎日この方法をくりかえす。床面を日干しする期聞は第一葉関葉迄とする。約伺田植え大体苗は五十日五十五日にて田植えとなる。JL二週間一一一週間である。第一葉がひらけばその日から水加減をして管理する。日中は五分七分くらいの水にし、夜I間は三倍1四倍の水深とする。即ち開業七枚目、七令となる始めの一枚目によく注意する。苗があつければ田植えまでに枯死してわからなくなる。追肥第一関棄した時第一回の追肥をなす。第二回は前ω麦作については、徳川時代より当町においては、畑作の主要作物であったが、品種の選択、施肥の方法、管理の方法がゆきとどかず、村々(現在の区〉によって収穫量に大きく差が出ている。明治初期になっても作付は概して変化もなく、備蓄貯穀としては欠くことのできない存在であった。明治年間にあって「木下畑方仕出し方」によると、一等畑一反歩、大麦一石八斗六升、但坪麦六合一勺という記載があり、また同書付に四等畑一反歩、此収穫小麦六斗一坪二合というようにも記されている。作付反別、収穫高については明治年聞のものは不明である。明、治十年信濃国伊那郡中箕輪村特有物産表、東箕輪村物産表にも記されていない。上伊那誌によると、上伊那地方に大麦、小麦とも明治十八年より資料として作付面積、収穫高ともに出てい麦作る。


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