箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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麦また明治初年の貯穀などの文書に、その量も多かったことからしでも、れていた。大麦の字句が多く見られ、畑作としては大麦が多く作ら小麦の作付状況は大麦に比して少なかったものと思われるが明治初年の収穫高などはっきりしていない。昭和五年以降の中箕輪村の麦作(大麦)の作付面積及び収穫高等は次のようである。この表で見ると、昭和六年頃よりだんだんと作付面積もふえ、二町歩を前後している。戦後急に作付面積がふえたのは、食糧事情の悪化の戦時中の状態が続き、食糧増産の一つのあOらわれと見ることができる。O特に戦後の二十七、二十八年頃には二戸の農家で麦の収穫二俵、三俵というのは少しもめずらしくなかっOた。このため麦秋の六月から七月にかけては梅雨の晴れ間に麦刈り、そして脱穀と大忙しだった。この頃は水田の裏作としても大分作られた。天竜川沿岸の水田は四O%位が麦回となっていた。畑大麦作付及び収穫高(中箕輪村〉年次|作付反別|収穫高|価額|反当収穫高昭和5年グ6年庁7年グ8年グ9年グ10年グ11年グ26年64反193183240256168245855175石3785016976073667111,4532,741円2,0852,1363,4853,0532,7456,3992石7412989273729042362217929021700


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