箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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また大正十四年には、伊那電気株式会社では農村電化の計画を立て上伊那郡飯島村及び中箕輪村で、野外電燈を誘蛾燈とすることとし、実施した。これは当時としては画期的なことであったが、蛾を集めて殺すということが一部分のみの実施では、その効果もあまりあがらないということで、広く普及するには至らなかった。勿論電燈線を引くといった設備上の問題もあげられる。次いで大正十五年箕輪村大干魅のため水田約八十町歩、収穫皆無となると記録されている。この年田植えしたが、その後殆ど雨らしい雨とてなく、特に山田にかける水も少いため横付けた稲も枯死してしまった。止むなく大豆をまきつけたが、それとても灰の中にまいたも同然で、とうとう芽を出すに至らず結局何も収穫できずにこの年は終わってしまった。昭和年代の米作昭和年聞にはいってからの水稲作付面積と米の生産高は次のようである。水稲作付面積は明治二十二年の四九五町が昭和四十年になって一、一町と約二倍となってOOいる。米の生産高も農業技術の発達とともに明治三十年頃と比較し面積は二倍増に、生産高は三倍以上と飛躍的に増加している。従って反当り収量の増加も著しいことは当然である。耕作面積の拡大と収穫量の増大にともない、稲作指導についても各村々の農会は農家指導に積極的になり、パンフレトによって農業全般について注意事項の数々を周知するため配布して年


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