箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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ー寸八月中米価暴騰、各地ニ暴動起ル、本村モ御下賜金恩命-一接シ、尚特志者ノ寄付アリシヲ以テ県税四十五等以下ノ者ノウチ申出者ニ対シ代金ノ補給ヲナシタリ、其石数ハ内地米七十六石八斗三升、外国米二十六石五斗廉米日数三十七日間其間米価ノ高低ニ準ジ補給金額モ増減セリ、御下賜金以下受領ノ金高ハ一千百四十三円二十銭、支出ハ内地米補給六百六十一円十八銭、外国米補給百三十五円二十三銭、雑費金二円六銭ニシテ差引残金三百四十四円三銭ナリ、而ジテ此残金ハ救済施設積立金トシテ、吉江銀行松島支庖へ預ケ入セリ」大正期も末年となると、主要食糧増産ということから中箕輪村内にも委員を任命し、各種の事業を行なった。麦の増産等についても、必行事項としていくつかの項目をあげて実行したものである。これ等委員(中箕輪村で七十五名〉のしごとは主として次のようなことの宣伝、啓蒙などである。1奨励品種の普及2苗代薄蒔の励行3苗代害虫駆除並に稗抜取り励行4片正条(すじをつけてまっすぐ植える)小苗株間密植励行5一番除草を早めに行うよう励行6緑肥の乾燥後施すことの励行Jこれ等のことを宣伝し、農家が食糧増産についての技術面での指導啓発をはかったものである。この頃(大正期)の水稲の栽培品種としては次のようなものがあった。。梗毛京、二本三、中縞坊主、渋凌、千石坊主、万石坊主、毛愛国、栃木早生、畿内早生六八号、松川、関取、上州、新潟坊主、女渋、銀坊主等。嬬清水濡、びっくり橋、黒嬬等大正も末期十三年に上伊那郡下干魁はげしく郡下五百町歩が収穫絶望視され、実際には全郡下にて収穫三割減O損害当時の金額で約二万円といわれた。


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