箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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、現今、梗米壱石売買価格拾六円ナリ」OOO大正年聞の米作大正初年米作反別は次のとおりである。(中箕輪村)作付反別三四一町二反歩梗米反別三九町二反梗米収穫三、七七八石嬬米反別三二町嬬米収穫三七六石計四、四五四石この頃になると農業技術が漸次向上し、安定した稲作となってきた。Oそして、農会が中心となって次のような各種の事業が行われている。大正七年にはこのようにいろいろな計画があり、実行にうつされたものである。大正七年採種目沢支部に嘱託し約一反歩の田に、女渋、畿内早生の二種を植付けた。その結果女渋は、種子に適しなかったので採種とりやめ、畿内早生は二石を採種して中原、下古田などに配布した。稲熱病試験回大出区田中末吉を試作人に嘱託し、十品種について、種類、肥料、耕転、水かけ等につき試験をして、その結果を印刷して農会々員にくばった。苗代監督大正六年に商代のできがわるかったので収穫にも大きな影響を及ぼして不作となったので、!首代作りの最初から種子、耕転、水かけ等にいたるまでこまごまと注意をしたりして管理上の指示を適切に行った。またこの年の記録には次のように記されていて、大正六年の不作がその端境期〈八九月〉に於て米価暴騰という形で表われた。一そのため、県税四十五等以下の者に、申出者(申告者〉に米価についての補給をしたわけである。大正七年の記録に次のように記されている。


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