箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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大正八年この年は三月に浅間山の鳴動が下伊那まで響き、悪疫流行(スペイン風邪、痘官箔)また六月にいたって降ひょう(親指大のもの飯田町)七月には箕輪村を中心として大雨があり、被害が大きかった。Hこうしたことから農村不況に拍車をかけた。このため米穀暴騰したので、これが救済の措置を購じた。次は当時の中箕輪村救済資金積立の規程である。「救済資金積立規程第一条米価暴騰ニ伴フ救済施設-一対スル恩賜金寄付金ノ残額金三百四十四円三銭ハ之ヲ救済資金トシテ蓄積第二条積立金ヨリ生ズル収入ハ之ヲ積立金ニ編入ス第三条積立金ハ左ノ各号ノ一ニアタル場合ニ之ヲ支出ス一米穀暴騰ニ伴フ救済施設二窮民救助前項支出ノ要否及其ノ方法並ニ其ノ範囲ハ村会ノ議決ヲ経テ之ヲ定ム第四条積立金ノ管理ハ本村基本財産管理規程ヲ準用ス大正八年八月一日施行中箕輪村長千葉胤孝」米騒動大正七年第一次世界大戦後の日本資本主義の著しく発展した時である。物価は大戦前に比較して四OM%も上昇したが労働者の賃金は一上昇したのみで、国民の生活は極度に苦しくなった。殊に米の値上りに至Oつては一升一二銭であったものが五銭まで上った。その原因としては、一、半封建的農業下では資本主義と都市の急速なる発展により米の需要増大に応じた生産の急速な増加が不可能となった。スO


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