箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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宵ウホかん墾に従事した。この結果は二戸平均四反歩の麗わしき犠畝を得た。今迄無一物の素漢貧も急に四反歩の地主となり、互にして一ヶ年十数俵の収穫がある事となった。これはなかなか大きなもので、前には雪を踏み、厳寒を回目し、凍傷の苦しみに堪え、奥深き深山に、薪を伐り炭を焼き、駄馬の尾を追ひて町に下り、米に換え塩となし飢餓の苦痛と戦うた者が、一人減り二人影をかくし果は極めて寡少となった。加えて此二、三年は園畝に桑樹が植付けられ、従来の粟畑や麦畑豆畑は皆緑の色濃き、桑畑と姿をかえた。この莱をつけ出し豆を選びたる駄馬の背には光沢麗美な繭が置きかえられた。かくて区の財政は、順調の帆船という喜ぶべき状況に立ちいたった。農業の状態(明治四十二年〉八乙女狭い農業に於て頗る発展の跡あるを見る。そは明治三十年頃より化学肥料、堆積肥料を応用するに至れる事なり。近来、又養蚕の業も大いに発展し、斯業の将来頗る注目に価するものあり。中原一般に農業を本業とし、養蚕業を副業となしつLあるも、年を追うて養蚕業は発展し、今や却って蚕業は事業たるの有様となった。従って、皆桑樹の裁培に努めている。大正期の農業大正年間にあっては、農業についての新技術を導入しようとする機運がいよいよと高まってきた時期である。農会の活動もいよいよ本格さを加えてきた時であり、農会主催のもとに、農業に関する講演、講習なども随時行なわれた。大正元年には萱谷郡農会技手、及び長野県技手を招いて農業に関する講演会を聞いているし、大正七年には、上古田、富田、木下、下古田の四区に於て造林法の講習会を聞き、松島区では農業改良法の講演会を、大出区では三日間にわたって桑接木の講習会を郡農会の主催で開いている。


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