箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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富田農業の状態如何というに、西後には経ケ岳峯替の一部なる概ノ木連山が南北に横たわっている。富田区はこの縦の木一帯の山麓に抱えられてそれが三団に分れている。そして村下凡そ方二、三十町は昔から田畑に開墾せられており、村の西山に接する処、山の下腹部、北境などには杉林が茂っている。かく山林が繁っていて耕地も人口に比して狭くない。その上土質は砂質壌土の少しばかりと砂土とである。であるから純粋に、真面目に農業を営まんと思う者には随分好都合である。ところが着実に、実験的に、研究的にこれこそ我唯-の生業これと確信して、農業を励みつある者は戸数七十、人口四百の中に、妻々暁天の星という姿である。未だ多Lくの農家は、祖先伝来の耕作方法に束縛ぜられて、随習を脱する一歩の進境をすら示して居らぬ。唯々諾々昔ながら畑に粟を作り、稲を作り、豆を作り、麦を作り、苧を作って、額の汗をその撞我命の親と頼みつLる。然しこんな有様であるから一方気風は、昔気質で正直で財産などの事になるとあくまで堅牢頑固なる執着心に富んでいる。かくてこの郷の農業が進歩も発展もしない因由はいくらもあろうけれども、余りに交通機関と隔離している事や呑気な所があるなどの他に、善良なる模範を指示する好個の人物がないのと、多少進歩的態度に出でたる先覚者が幾多失敗の歴史を残したる二点に、更に深く係っていると信ずる。故に早く学識高尚、経験に富める指導者が現れて、善良なる傾向を作られん事を熱望する。そこで、現下の実状は、年と共に桑樹を裁培せられ、一方には山林が伐られて開墾せられつLある。いわゆる粗放農業にはしらんとしているが、果してこの考案が村状況に最も適合なるや否やは甚だ疑わしき問題の一つで、寧ろ収約的方法を執るの抵抗少なくして、利益の大なるに如くはないと思うている。農業の状態(明治四十二年)上古回数年前、松島の西、大出、八乙女、上古田、下古田、中原の聞に介在した空漠たる大原野が分割せられた。ところが杉樹の裁培に勉めた区もあったが、我区民はあらん限りの精を尽し根を絞り、芝をむき石を拾へて開あ


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