箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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第三、富田村外二村が利用している大泉川の水を羽広村に利用させること。第四、木曾の伊那沢の出水を、小沢川と合水させて、与地、上戸、中条、大査、沢尻と新堰を作り、新田を開拓いたしたいこと。〈ちもと以上の様に用水を取替て利用することにより、山附方面の畑作の村々、それに山沢の口元の開墾、開拓をして、従来流末が利用していた用水を、天竜川より新堰を聞いて用水とすれば、莫大なる利益をもたらす施策と考えられるので、我等連盟においても確固たる心念をもってこれを肝に銘じ尽力する覚悟であるから、少しなりとも忘れる事なく、御役所も推進していただきたい。あわて我々は忽者であるから、一日過ぎれば、一日の損失になると考えて、少しでも御園に報い、富国強兵に尽力したいから、前の条々通り御訂正なく採用していたふければ、身が死すとも尽力するから、一日も早急に御許可下さるように、一重に御願い申上げる。この様にして差出された趣意書も、その後種々検討されて明治九年には、天竜川の用水利用について、興業社(企業体)によって、西天竜取水口である川岸村から、南箕輪村迄の開発計画及び地域の企画、神子柴迄の一筆調査が実施される運びになった。この地域開発もおそらく種々の論議を呼んだ事は推測されるが、中箕輪村においては、村議会において水利組H合協議会を発足させて、委員七名を選出の上調査研究に踏切ったわけである。明治三十三年になり、時の郡農会長平林斧士口の提唱により農地開発の急務であることを強調、特に明治三十七年天竜川西岸の北部地域の地形、地質調査、河川の水害水質調査が実施され、明治三十九年十一月には天竜用水路期成同盟会が組織され、この時からが現在の西天竜土地改良区の胎動が初まったのである。この経過を見ても、明治維新直後に考えられた構想が、四、五十年及び百年過ぎようとする時にようやくにして陽の目を見る事業としてはじまったことは、百姓の一念が実ったのである。


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