箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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一人の四人で入植し、木下の笠原昌之進所有の山林十町歩を開拓したが、他の三人は余りの不結果に耐えかね、三年目に脱落して去っていった。「無理もなかったわね。」と林氏は、当時の苦労を次のように語っている。樹木の伐採や抜根のような仕事は、昭和元年から既に始まっていた。第一期の工事で、昭和三年には春日街道まで開国されたが、地盤練りなどしない適当な工事だったので、篭固といわれるように、水持ちは悪いし、畔は切れる、でこぼこが多くて一枚の回を四つぐらいに手畔で仕切らなければ、水が廻わらない有様だった。四人で二町歩ずつ耕作したけれど、肥土の集まったところは穂が出たが、収穫皆無の回の方が多かった。肥料代にもならなくて、三人は逃げるように去ったが、私は満洲の開拓に行ったつもりで、もう二年頑張ってみることにした。二年目の代かきには、地盤諌りをしてないので、置土したところは馬の腹まで落ち込むような状態で、嫌がって代かきに来てくれなかった。三年目になって、耕土の上からトラクターで固めてからは、ずっと水持ちもよくなった。追々収穫も増して収支もつぐなうようになったので、頑張りとおすことができた。開田は土地の百姓もやったが、木下では飯場があって韓国人などの土工が請負工事として施工された方が多かった。県が測量設計して、難場で一枚当り一円から一一一円、平均七円八円と開田費が決っていたから、切株の上に耕土をかぶせるような手抜きもあったたし、指導の失敗もあって、固にはなったものの、馬耕をすれば先が根に引掛かって折れるやら何やら、今の田作りでは考えられないような苦労があった。入植後五年間ばかOOりは電燈もない家で、よくやってきたものだと思うが、お陰で今は屋敷つづきに八反歩ほど自分のものになった。後から入植した人達は、その点ずっと楽だったという。松島春日町部落は、現在二八戸だが、昭和三年に小野から丸山氏が入植したころから歴史が始まった。畑地を開国したので、木下原南部のようなことはなくて、初年度から反当米で五俵余りはとれたが、耕作水田はすべてO小作地で、反当米三俵一斗三升三合の小作料を納めれば、手につくところは微々だるもので、肥料代など支払った不足は、入植前の僅ばかりの貯金で補っても、年々借金は嵩む一方だった。冬は静岡のみかん畑へ出稼ぎにも行ったし、昭和十六年からは単身満洲に渡って会社に勤め、そこからの送金でようやく借金を精算した。戦後農OJO


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