箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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また井戸水の水量増加は所々に見られ、特に大出部落では、深い井戸は二三に及び、平均一四、五であるが、濯概中だけなMMら七九掘れば湧出した。しかし当部落としては、飲用水よりTMも雑用水の恩恵が大きかった。それまでは、下古田で深沢川から揚水した門川が部落唯一のもので、雑用水には不自由してたが、開田後はそれが豊富になり、期間中はそのなやみも解消したし、防火用水の心配も大いに薄らいだ。新集落の発生開田と併行して、国や県は西天地区への入植を奨励し三円六円の助成をしたので、各所に入植者によOOIOOる新集落が発生したが、当町では、木下区原町と松島区春日町とである。政府の奨励事業として行なわれていながら、伊那市美意(美篤村)の末広部落等に見られるような、耕作土地の無償配布という好条件はなかったので、入植者はほとんどが小作をしなければならなかったから、条件としては不利であった。木下原町の場合は、大正二年に山川嘉一が木下から現在地に分家してきた時には、北の方に水田、百瀬、木村の三軒があって、開回以前には桃、ブドウなどを主に営農していた。入植者は、水内などの郡外や村外からが八割以上だった。山川家から南は、導水路の上から春日街道の下の方まで松と唐松の林で、北には南宮神社所有の畑や私有畑があった。昭和三年には、水路から下方一枚までが水田化し、畑だっOたところは米で六七俵の収穫があった。しかし南の方、林を開国したところは、よくても反当モミで二一一一T俵、収穫皆無の国の方が多いくらいだったという。久保に近い、林茂理は、昭和二年に羽広から三人、塩尻から木下原町の西天竜水路


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