箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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昭和2年調査資料十一月通水、昭和四年より初作)には、反収二石としても一二、000石余の収米が推定されるので、村民の消費を補って余りあった。かくて消費村から一挙に供給村へと変わり、開聞の完了した昭和十三年には、面積は古田とあわせ七八町余りと倍増し、戦中戦後の食糧増産に大きな役割を果した。O水田化によって、主食の自給自足が可能となり生活が安定したばかりでなく、畑作経営よりもはるかに反当収入が増加した。耕地整理組合の昭和二年度調査資料によると、生産費五六円二銭を差引くと、水田の反当純益は七三円八銭となるが、これは桑OO園の反当純益一六円四一銭、夏作大豆の一円五二銭、冬作小麦の一円五二銭、陸稲OO四円に比べはるかに有利であったという。地下水の増加と利用西天竜地区の土質は徽密とはいえず、濯概水の地下浸透はかなり大きくて、組合の調査では(昭和二年)平均三0アール当り約三三ω立方となっている。この浸透水による伏流は土地利用の上にも、地域住民の生活にも様々な影響を与える結果となった。伏流の増加に伴って多湿になり、木下駅以南のがけ下の水田が、冷湿田になってしまったのは悪影響の例だが、寧ろ恩恵を受けた面の方が多い。わさびの生育に絶対必要条件は清到な水であるが、西天竜濯概水は、地下に浸透して豊富な泉水をがけ端に湧出した。ここが絶好のわさび生育地になり、泉水の湧出した斜面を巧みに拓いたわさび畑が誕生したのもその一例である。(昭和二十八年現在で七反八畝〉その他、伏流の増加によって発生した産業としては、「にじます」の養殖がある。豊かになった地下水をくみ上げて流水と合わせ用いての養殖は、対米輸出の好事業となった。


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