箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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た。今度中曾根新田村へ分水するよう出訴しましたところ、松島村役人を召出され、咋五年に許可した羽場村境よりの堀継井筋(新井のこと)が通水し、まだ全部開拓してはいないが、用水には差支えなさそうだから、帯無川の水を松島分だけ、中曾根新田村へ融通するよう沙汰されました。そして小前の者たちまで説諭し、中曾根新田村からは、松島村の新田揚込、井波の人足誼一寸を差出すから示談に応ずるよう再三仰せつけられましたが、容易に成立しなかったところ、御上様の厳重な御指導で、双方納得し熟談の結果、次のように結着しました。一、帯無川から揚げている上古田、中原、松島三か村の用水のうち、松島分だけ春八十八夜から秋彼岸までの濯瓶期間中、中曾根新田村へ分水する。一、松島村新井の井波、水揚繕いとして、明治七年から永世一か年につき人足百人宛、その時々入用次第中曾根新田村から松島村へ差出す。また、人足の作業開始は午前七時からとし、労賃は中曾根で支払うものとする。一、新井を増水することになり、井幅を切広げるために人足が多くいるので、明治七年一か年に限り、新井通水前の工事中、人足五百人を中曾根新田村から松島村へ差出すこと。右の通り示談が成立した上は、両村とも堅く約定を守って違反ないよう約束できました。偏に御上の御威光と有難く存じます。よって双方連印の証書を差上げます。明治六年九月二十九日連印したのは、中曾根村副戸長唐沢五郎七、唐沢善蔵、小林五郎平、松島村副戸長原伊作、藤沢与市、市川利一郎、唐沢所、日野信男、三沢理三治、千葉政雄等であった。示談の条件は中曾根にとって、かなり厳しいものであった。差出し先は筑摩県権令と思われるが、記載がなく不明である。永世一か年百名の人足差出は、その後金で解決したようである。その時期は、前記示談書の写が、明治十年に松本区裁所へ提出したものだから、これが解決に関係した書類だとすればそのころである。


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