箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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-七月二十三日四十五日来断水ノ時間多グ、日一日ト干上ル回多ク、コレガ対策トシテ耕作者全部ヲ動員シ、河草刈リ井桁ノ草刈リヲナス一方、横川川ヲ堰ギ揚ゲ多量ノ水ヲ入レ通水ヲ滑カニスこのように苦労して、導水を計っても、上流の羽北地区の耕作者の中に、勝手に水を払い落とす者がいたりして、必要量の水が来なかった。そこで羽北地区と折衝して、午前八時から午後四時までの八時間は羽場、北大出への給水を完全に止め、用水全部を下流に流すことにした。それに伴い、八月五日夜耕作者総会を聞いて次のような決議を行なっている。OOOO常設水番を廃し、耕作者四名ずつの当番制とする。水当番は午前七時に家を出て、八時には羽場、北大出、両区への給水を止め、水について下って来る。羽場三区の耕作者が密かに引水するらしいから、当番中一名は両区を巡視し、三名が配水に当る。給水方法は、区域ごとの時間水とし、時聞がきたら区域内に水のかからない回があっても次へ移す。翌日の当番は、前日水のかからなかった回へ優先的に給水する。O当番は昼食を持参する。この決定に従い、八月七日から九月八日まで、十六組の耕作者が二回ずつ当番に当っている。こうして来る年も来る年も水不足に悩まされ、昭和二十一年の記録によると、五月末から八月半ばまでに、羽北と共同で六回に及ぶ水揚作業を行なっている。また連日各地区の濯水状況の視察、漏水個所の点検等、水利係りの苦労は並大抵ではなかった。明治六年の通水以来、戦後しばらくして揚水口及び水路がコγグリトで整備されるまで、新井はまさに、水不足とのたたかいの連続であった。L用水維持費の不平等は、戦後の農地改革の折に解消した。明治六年の規定は、何時頃からかは不明だが、辰野地区と沢とで二分の一ずつ分担するようになっていた。濯漉面積では、辰野地区は四倍(約三二町歩〉あったが、維持費の分担は半分ずっという不平等が続いていたわけである。現在は全く平等で、昭和四十九年における沢地


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