箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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三治、日野重久等立入のもとに、将来確守すべき事項を左の通り約して、この事業を長岡区へ引渡した。一、樽ノ尾沢上水は、この上開国しても水が無いので、この水を用いる目的の開田は絶対させないこと。L一、明治十六年十月の上水工事請負を解除し、関係書類を長岡区へ引渡せば、関、永井両名には責任がなくなるこ。』一、得ノ尾沢上水を濯概する田地所有者の水使用権は同等であること。一、永井正造は、字古神の自己所有地に、自費で一坪以内の溜池三か所を設置し、秋の彼岸から春八十八夜まで、用水流末残水を貯水し、用水の予備とするは本人の自由であること。要約右の通りであった。明治六年の発案からの二十五年経っていた。翌三十二年十一月、東箕輪村長山口久蔵は、永井正造については、上水事業に着手してから熱心に経営し、身を危くし財を描ち、偏に公益のため飲用水を補給し、余水をもって新田を聞き、もって致富の基を起したことを、また関文吉については亡父の遺志を継いで産を傾け財を描ち、この事業に努めたことを感謝して、それぞれ賞状と賞盃を贈った。当町には別表の通り、明治時代とそれ以前に開撃された井堰が幾っかあるが、このように資料が残っているものは他にはない。OO水利権のからむ井筋の開設には、とかく問題が出て難航しがちで、樽ノ尾沢用水の場合も、完成までには幾多曲折を経ている。請負人と区との聞に書類をめぐっての訴訟事件も事実あったし、水利権について流血の争いも起るなど、決してスムーズに実現したわけではない。他の井筋の場合にも、多かれ少なかれ同様の経過のあったことが、古老の話から推察できる。にも拘らず関係者は辛抱強く困難を打開し、今日の町の農業の基をなす井筋を開発してきたのである。


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