箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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明治一二十一年十月二日用水事業を長岡区へ引渡す。難航に難航を重ねて、ようやく誓約書の交換にこぎつけた長岡耕地民一五三名は、連署して両小河内耕地惣代に謝状を送っている。文中に「当耕地一層挙テ面和従順-一取計専一可致」とあり、専ら顔を和げすなおにするということは、これまでの両者聞の空気が如何に厳しいものであったかを物語っている。O明治十七年五月二十二日弁筋完成樽ノ尾沢より郷沢口までの新古井筋堀立修繕工事は、永井、関両名が請負って十六年十二月二十五日に蒼工し、翌十七年五月二十二日に完成した。そこで三耕地惣代立会いの上取入口の水量を調査した結果、例年より水量が多かったので、仮分水量を深さ四寸、巾一尺五寸と定めて同月中に通水する運びとなった。水量の測定は十七年九月二十日、同十二月十六日、十八年四月十八日、同六月二十日の四回行ない、四季平均して次の通り正式に確定した。O「分析幅二尺、分析中央の水深四寸八分五厘」明治十七年十一月残水による開田が許可される。O井筋を流れてくる水は飲用水に使用したが、残水があったので、字宝六から古神を経て一ノ坪に至る全長四間余の用水井筋の堀立と、その用水による約一町歩の開国を願い出て許可された。用水路の完成年月は不明Oだが、十八年中には通水可能となり、順次開田が進んだらしい。当初一町歩予定していた開田も、明治二十九O年五月に永井正造が、村長へ提出した建議書によると、七町二反内外で、流末への通水が困難になったという。そこで永井は、用水使用管理委員を立て、昼夜番水にして確実に水を掛けつぎするよう建議したものである。三十年以後の新規開田については、従前に開国した古田の植付けがすまないうちは田植えをしないこと、水不足で古田が干る場合には、直ちに新田への給水を止めることなどを約定している。用水事業はこれまで、永井正造、関文士口(織右衛門死亡後実子文士ロが継ぐ〉の両名が長岡区から委托されて担当して来たが、開田も限度に達し、また用水管理上何かと問題が起きたりしたため、中箕輪村山岸節三、三沢理


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