箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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OO0・勾入りで一俵三八円で出荷したから、一戸平均約二万円の収入になった。四十四年四十五年には加工用Jは、手を握り合って泣いた。昭和二十六年八月十五日午前十一時十分だった。開拓農業が軌道にのり、水の需要が増すにつれて、水道工事は四度行なわれ、水源がウサギ沢に落ち着つくまで、水利権の入手だけに前後百万円かかった。現在は町営水道に加入しているが、深刻な水不足を解消するまでには、筆舌に尽し難い苦労があった。開拓地に電燈がともったのは、二十七年二月九日のことである。引込距離が長過ぎることから電気会社が難色を示して承諾が得られやす、金策にも苦蔵したりして、着工に漕ぎつけるまでには、他地域ならしなくて済むであろう余分な苦労があった。こうして人間らしい生活ができるまでには、入植後数年を要したわけである。それでも、上伊那の開拓地で電灯がともったのは一の宮が最初だったという。新井組合長の知人が、県や農林省の担当部門にいた関係で、補助金その他で便宜を計ってくれたことが少なくなかった。まだ世間で耕運機とも言わないころに、ドイツ製のトラグターが無償で国から提供されて偉力を発揮し、他地区の開拓者に羨しがられた。道の悪いのにも難儀した。雪どけのぬかるみを町まで用たしに下れば、普通半日仕事だった。町中で陽やけした小母さんを見かけたら、一の宮の人だと思えば誤りないなどという笑い話も、まんざらうそではなかった。顔など構っている暇も余裕もなく、なり振り構わず働かなければくらしていけなかった。努力の結果は、三十五、六年ごろになってバレLショの一トγ貨車四台余の収穫となって報いられた。二OOトマトの栽培が成功し、平均四01五0アール、最高一ぬも栽培し、一当り三01四万円の高収入も見らOAOれた。今日までに九戸の離脱者があり、四戸がかわって入植して現在は三五戸であるが、営農に失敗しての離脱は一戸もなかった。当初の失敗から立直って、とにかく今日のあるのは、組合員各自の根性と四名の協力によるものであろうOが、一人も離婚して去るものがなかった開拓地の主婦たちの陰の力が、大きく支えになっていたと言う。


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