箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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研ぎ水を捨てないで置き、食器類などはそれで荒洗いしてから、あとを少しの水でゆすいで節水した。風呂は臭くて入れなくなるまで、何度でもわかし直した。入植者の保健衛生については、郡開拓協会の保健婦が巡回して指導を実施したが、何分にもへき地であるために、訪門回数は二ヶ月に一度程度であった。役場保健婦の現地訪門指導は各家庭を個別に巡回して、栄養、医療なやみ事等あらゆる相談に応じ、当時の保健婦の活動は「移動民生委員」の役割をして、開拓者の大方に感謝された。前記のような、生活の中から伝染病の発生も見ず、今日にいたったことは、開拓者の保健意識と村当局の指導と援助があったからと考えられる。日常生活の不便は何とか工夫して凌ぐとしても、酪農や果樹、そさい栽培等有利な農業を営むには水道の設置が不可欠の条件で、二十四年の冬から二十五年の冬にかけて、水源を求めて西方の山中に横井戸掘りを始めた。最初は近くの部落から分水してもらうつもりで辛抱よく接衝してみたが、結局は徒労に終わり自分達の手で堀Oることになった。四人が昼夜突替で掘り進め、堀った土は木をレIルにしたトロコで搬出した。素人の仕事OMだから穴は曲がり、大きな石に堀り当れば、堀って出すのに一週間もかかる有様で、作業は遅々として進まず、五堀つでも水は出ない。工事の成功を懸念するもの、不平をいうものも出始め、なだめる今井氏等役員の苦みずみもOM労は大変だった。五西に入った所から南へ四一一一枝穴を出して、やっと水道に当った。水が出たと言うよりMは水滴がおちてきたと言う程度であったが、広い範囲から集水して送水することとした。地区まで一回の導水にOOMは、一のヒユLム管を使ったが、各戸への引水は資材不足で鉄パイプの入手ができず、竹を買って来て代用した。継ぎ手は松を切り出し、木工場で穴をあけてもらい、漏水止めに檎の皮をつめた。通水の日は雨降りだった。篠つく雨をついて全員山に登った。地区では婦女子が水の来るのを今か今かと待っていた。一時間たち、二時間たっても水が来ない。人々の顔には、次第に不安の色が濃くなった。二時間半、タングのヒユム管のロにあてがっていた耳に、かすかに水の流れる音がした。やがてサラサラと快い音をたてて水が落ちてきたときに


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