箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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組収入JJJ戸竺主~U-I己目|;J:日生晴里町入量TILL;I;:I;|;II;||:;E入植状況(上伊那開拓十年史〉V生しているのに手古摺った。開拓者はその小木をピンボウと呼んでいた。二十二年に入植した桜井利雄等いわゆる満蒙開拓六人組は、二二才の氏が最年長の若者たちであった。地区内中曾根寄りの所に残っていた運建隊の車庫を借住いにして開畑に従事した。車庫の一部九坪程を古板で床を張り、そこで起居を共にし、炊事は一日交代の当番制にした。昼は開畑に精出し、夜は暗いランプの下で、満州時代の思い出を語り、将来の夢を話し合った。昭和二十二、三年といえば食糧危機のさ中で、毎週一人ずつ交代で下伊那の生家へ、リユクを背負っては、イモ、ムギ、ァヮ、味噌、,しよう油などを貰いに出かけた。労働がはげしいだけに、食糧不足は身にこたえた。拓いた畑にはジャガイモと大豆を播いたが、収穫はイモは小さいのが二、三個、豆も一本にサヤが二つ三つつく程度であった。二十一年八月に入植した今井喜一は、木下出身の満州からの引揚者で、現住所の近くに弥生時代さながらの堅穴式住居を作って開拓に当った。入植者がひとしく苦労したのは水であった。それぞれ最寄りの部落まで、桶を天秤に担ぎ、往復一時間もかかって貰い水に行かなければならない家が多かった。水は大事で、米の


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