箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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歩ずつ図面上での配分が決定したものの、実際上入植者地区内に増反者の畑が入りくんでいて、交換は至難を極めた。完了までにはその後何年間か要し、毎年春秋の播付け時には問題になり、解決までには、長い年月にわたる関係者の努力があった。開拓用地解放者は一五名以上にのぼった。O組合の営農方針二十四年に一の宮開拓農業協同組合を結成した。酪農果樹(梨〉混合経営の形態を目標に進め、各戸の最低水準粗収入を七五万円に置き、五戸を一組とする八つの組を作って、組長の責任下において協同作業を行なった。将来農家一戸の経営目標を乳牛三頭、豚三頭、めん羊三頭、鶏五羽、果樹二反歩とし、労力の不足は作物のO限定による耕作の単純化と機械の導入でカバーする。また、乳牛の搾乳も五戸組に一つずつ搾乳所を設けて電気搾乳を行なうなど経営の合理化につとめる。その後二十四年四月までに、入植者の再詮衡が行なわれ、入植戸数Oを四戸に変更して、新井新組合長を中心に再建計画をたて、組合員は再出発の鍬を振い始め、ようやく軌道にのった。昭和三十年現在の農家経済状態は次の表の通りである。買収は、昭和二十一年十二月に自作農創設特別措置法の規定により、林虎雄知事の名において行なわれ、開拓者への売渡しは二十六年五月で、売渡価格は反当一二円であった。O開拓状況と開拓者の苦心戦争中農工隊(韓国人による開拓部隊)による閲畑は、畝幅は約一・一二、真中の部分の芝はそのままで、そMこへ両側の土を堀起して一一一Oω呼ばれた人々が十数名、ブルトほど盛り上げるという簡単なものだった。終戦後運論省建設隊、略して運建隊とLLザ一台、トラクター一ニ台を使って開墾に従事していた。切り株の下に火薬を仕かけて爆破し、根のうき上がったところをブルトLLザで引き抜く、いわゆる火薬抜根であった。入植前にそうした開墾が何町歩か行なわれていた、が、それらは全くの簡易開墾で、およそ畑の体裁をなしていOなかった。至る所に潅木の一種であろうか、赤い実をつけた三倒足らずのが、竹のような根をはびこらせて密四


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