箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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第四節一之宮開拓開拓以前の一の宮一の宮開拓地は、上古田、富田部落の中聞に位置し、山麓から下方に聞けた一帯で、終戦ごろまでは一部の開墾畑をのぞいて三、四十年生の赤松を主とする平地林と原野であった。起伏の少ないゆるやかに東に傾く地勢は、近傍部落より耕作地としての立地条件に勝れているのに、住民も住みつかなかったのは、一つに水利に恵まれていなかったことによるとされている。富田、中曾根、中原、木下の採薪地であり、採草地であった。また「茸とり」や、特に「スガレ」(地蜂)追いの絶好地となっていた。西天竜の開発で畑を失った農家が、必要に迫られて昭和五年ごろ、現在の開拓地の東方入口地帯を開畑し、また、第二次大戦中食糧増産のために、農兵隊が、北方中原部落よりの帯無川沿い地帯を簡易開墾したが、終戦とともに放棄されてしまった。O入植まで昭和二十年の最初の入植計画では、入植計画戸数は五五戸であったが、渡辺初代組合長は営農計画を無視して土地の確保をせず、確たる成算もない松根油採取という農村工業を夢みて、補助金、融資金をこれに乱費してしまった。その額は昭和二十三年春までに一九万円にのぼり、遂には訴訟事件にまで発展した。指針を失った組合員は支離滅裂の状態に陥り、不振組合として特別指導を受けることとなって、開拓は出発点において早くも暗礁に乗り上げてしまった。土地の配分は、増反者(近傍農家の開畑した者)の畑が地区内に点在していて、この交換分合については、二十四年一月増反者代表、農地委員、地方事務所農地課、役場農地委員会事務局による最終会談により、一戸二町


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