箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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第七条糞尿ハ該器内ニ充溢セサル様時々汲取-フスベシトラホームの検診明治四十年ごろから、トラホームの検診が行なわれるようになった。四十三年中箕輪村事務報告によると、虎眼検診スベキ人員七千三百十二人受検者七千二百四十四人内患者千五十三人とあり、約一五万が握っている。箕輪村では、細井要人医師に委嘱して、七日間費して村内各耕地を検診して廻り、患者の発見と予防に努めている等、トラホームは当時の衛生上重要な問題であった。中箕輪の場合、大正元年には患者が一OMM、昭和元年七広と漸減し、昭和五年には一般の検診を行なわず、接客業者一二七名のみを検診した結果、軽症者が一名あっただけである。昭和十年ごろには全く検診の行なわれた報告がなく、根絶して検診制度はなくなったものと考えられる。--L・ノ、乳児検診目撃事変、大平洋戦争と戦線が拡大するにつれて、人的資源確保のため、「産めよ増せよ」が国策として奨励され、国はこどもの多い家庭を表彰した。国民は戦時下の物資不足、はげしい労働等母体の健康を心配しながらもこの国策に協力した。こうして生まれた国の宝である乳児を、困難な状況の中で健康に育てるため、乳児の健康診断と保育指導が行なわれるようになった。中箕輪村の場合には、乳児を小学校の保健室に集め、福島市左エ門医師と上田亀喜助産婦が検診と指導に当った。全村の乳児検診をすますには、一週間ぐらいかかった。乳児の保育上最も問題となったのは、母乳不足とジ五


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