箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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一、コレラト天然痘ニ限リ、澄心寺ヲ借受ケ治療スルコト等を決議し、そのための予算四二円二銭の追加を決定している。両村とも当時の村財政では、避病院を特設することは困難な実情だった。予算の裏づけのないかけ声だけの国県の衛生行政では、なかなか実績があがらなかったわけである。村財政は苦しく、県の補助も得られなかったが、赤痢の多発により、避病院の設置を余儀なくされて、中箕輪村では、明治三十年に伝染病隔離病舎を建てた。同年十月十日の村会で建設が決まり、建設委員には北条富也、大槻玉三郎、日野重久の三名が選ばれた。費用は、建家買入一五円造作費八円整地、移転費一円炊事場新築六OOOOOO円備品四円その他一円OOの合計三五O円であった。建家を購入設置したもので、場所は帯無川下流の木下地籍(現竜水時計工場の位置)で、規模は十名収容ができる程度の粗末なものだったらしい。箕輪村では同三十年に、予算三円で福与二本松に病舎を建てているが、三十四年には修理しないと患者をOO収容できない程度のもので、四十二年には一円八二銭で売却してしまっている。四十六年に新に建設するよう村会で決定したが延期され、遂に建てることなく、中箕輪と組合立にすることとなった。(病舎は中箕輪村の前記病舎を使用〉大正十四年、松島駅東方の天竜河畔(現興亜電工箕輪工場の位置)に、組合立伝染病舎を新築した。その規模は、病舎東西二棟六一坪


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